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闇月の風

  

3 風の匂い

 

 

 ざわめきは、不穏な熱気を孕んでいた。

 むっとするような夏の風は、「アダの野は果て、レイムの崖に、群れ島飛ぶ海始まる」と、サブールの古歌に歌われる、レイムの内海からの潮の香りを運んでくる。

 レイムは塔と糸杉の覇を競う、神々の都であり、八氏族の集う街だ。

 

 このタルワ氏族の邸宅の一角は、適度に大公宮からは距離がある。

 氏族の枠に、年上のものほどは囚われない、もしくは自分ではそう思っている氏族の上流の若者たちが集い、声高に政治を語っている。

(やはり来るのではなかった)

 マリードはすでに何杯目かの酒を手にしていたが、ここちよい酔いはやって来ない。

「リュシ将軍が来るって本当かい?」

 ざわめきがあちこちで起こる。

 マリードも、名高い将軍の顔を見てみたいという気持ちがないでもなかったし、一方ではそれを怖れてもいた。だからこそ、その怖れを乗り越えようと、無謀な勇気を奮い起こし、誘いに応じてこの集まりに足を運んだのだ。

 周りの若者の交わす言葉の調子にも、盛り上がる期待の大きさが分かる。

 若いリュシ将軍の戦勝、功績がたたえられる。将軍は初陣から間もない。何といってもここに集う若者の半数以上より若いのだ。

 北方戦役、レイム戦役。数々の武勲は、聞くものの胸を踊らせる。

「将軍は年寄り連中とは違う」

 立ち上がって熱弁を振るう若い一本気の青年が、力を込めて将軍の勇猛さをたたえる。

「頭の固い氏族のお偉方よりも話が分かる。どの氏族の者なのかより、その人間に何ができるかだと分かっている」

「馬鹿馬鹿しい。そんなことをいったところで、リュシ将軍その人が、権勢を誇るダンゼン一門の貴公子じゃないか。ダンゼンの力なくしてあれだけの軍功が上げられるものか」

 やや醒めた見方をするものが、水を差すように言葉をはさむが、

「しかしここは確かにリュシ卿の優れたところだ。いいかい、クジュワのトリル卿やアントワのリジク卿の登用なんて、これまで誰ができた」

 数々の軍功と変革を挙げて口々に立証する支持者のこんな意見にはうなずくものも多い。

 

「次のゾイ公爵はリュシ将軍に違いないな」

 それを歓迎するかは別として、その見方に賛同する声があちこちから上がる。

 リュシ将軍を一躍実力者に押し上げたのは、去年のレイム戦役である。

 十何年かぶりの小雪のちらつく曇天の下、レイム都城のすぐ外まで押し寄せた隣国の軍勢を追い払ったリュシ将軍は若い英雄であった。

 今にもこの場に現われるかもしれない話題の人は、こんな若者ばかりの集まりに顔を出してもおかしくないだけ若い実力者なのだ。

 ダンゼン一門の名家ゾイの不運の貴公子ロナクのことは、レイムでは今も語り草になっている。ダンゼンのダンゼンたる所以という注釈付きではあるが。

 当時、現在のゾイ公爵であるデュイクをしのぐ人望を集め、次期ゾイ公、ダンゼンの総領の最有力候補であったリュシ卿ロナクは、若くして謎の死を遂げた。その死によって一番得をした人間が、その死に対して責めを負うべきだということは、レイムに住まうものなら赤ん坊でもでも分かっている。

 そのロナクの遺子というリュシ将軍は、ダンゼンの宗家ゾイの有力貴族カトゥイグ卿の娘を娶り、その養子となっていた。

 

 宴はかつてない盛り上がりを見せていた。

 あちこちから笑い声や議論の声が上がっている。

 すでに酔いの回った一群からは、どら声が歌う氏族の歌が聞こえてきた。サブールを貫く大河、オイベルの川歌だ。

「おい、ここはクジュワの氏族の集まりではないぞ」

 年長者でまだ判断力が残っているものが慌てて止めに入るが、別の一群は対抗してタルワの馬追の囃し歌の合唱を始めてしまった。

「また歌合戦か」

 うんざりした表情の若者の一団がある。度重なる氏族同士の抗争に、他の氏族がいるところでは氏族の歌を歌わないという内規ができてしまったカントゥワ氏族、ダンゼンの一門の若者たちだ。氏族内の結束は堅く、掟を破るものはない。もっとも多数である彼らが歌合戦に参加したら、収拾がつかなくなるのを誰もが知っている。

「そのうち力つきるさ」

 歌うのはサブラの民すべての楽しみだ。歌を奪われたダンゼン一門の者は誰もが不満気だった。

 

「今夜はいらっしゃらないそうだ」

 駆け込んできた若者がもたらした知らせに、失望の声が一斉に上がる。

 将軍に好意を持つものも持たないものも、共に期待を抱いて待っていたのだ。だからといって退席するものはなく、ざわめきだけが大勢の若者が座り込んだ広間に波のように広がっていった。

「そういえば、リュシ将軍によい縁談があると聞いたぞ」

 情報通で知られる青年が、今夜のとっておきの話題を持ち出したらしい。

「何でもリテワの王族の姫君を娶られるとか」

 どよめく一同。

「やはりな……」

「しかし、リテワの姫君と言えば……」

 リテワの王族と言えば、レイムとサブール諸国を統べる、ジュナイ一門のサナルと、分家筋にあたるアンドール、ウドールの三家をさす。

 アルムイト王はサナルの旁流、前王ナルドの末弟に当たり、古くはアンドール公の位にあった。

 先の年の戦で、サナルの主だった王族はすでに死の門をくぐり、一旦公家を継いだ身であったアルムイト王が王座についたのだ。

 リテワ一族による支配の要であるアンドール、ウドールの二公家の公爵位はその世代交代のために顔ぶれが入れ替わったばかりである。

 一方のアンドール公は、先のアンドール公、つまり今レイムの王座についているアルムイト王の長男であり、次の国王たるカドルス太子が継ぎ、もう一方のウドール公は、先のドゥーミ大公の遺児であるカリスが継いでいた。

 二人ともつい昨日まではぱっとしない年若い貴族に過ぎず、レイムの氏族社会においても、顔や人となりもほとんど知られていないに等しかった。

 ましてやこの席でひっそり杯を傾けるだけのマリードに至っては誰が知るだろう。

 

「エルメラ姫は?」

 先のナルド王の末の王女の名がまず人の口にのぼる。

「いや、戦の後は神殿に籠られたきりと聞いているぞ」

 エルメラの兄や姉の辿った悲惨な運命を思いだしてか、座には一瞬沈黙が流れる。氏族の館の立ち並ぶこのリシュバの丘も敵軍の蹂躙を受け、王族を含め多くのものが命を失った。未だレイムは先の戦の痛手から完全に立ち直ってはいないのだ。

「新しいウドール公には妹君がおられると聞いているぞ」

「だめだめ、カリス殿は先のドゥーミ大公のお子だが、一度は母君のご縁でトーラ一門に養子に入った身だ。妹君はもはやジュナイ一門でも、王族でもないぞ」

 サブラの諸氏族にとって、族譜に記載されたことは絶対なのだ。

「しかし、国王のお子は?」

「確か、何人かはいらしたな」

 途端に話し手の声は自身を失ったあやふやな調子を帯びる。

「新しいアンドール公だろう……」

 つい昨日までこういった集まりに顔を出していた王の長子カドルスの名は出るが、後は続かない。

「そうじゃなくて、姫君だよ」

「リテワ・ジュナイ・アグリナ。アンゲーリナ姫だよ」

 そこに響き渡ったのは希代の女たらしと言われる、ダンゼン・ロイムの貴公子シーレンの声だった。

「美人は一度会ったら忘れないからな」

「美人て……会ったのか? 幼いころから今に至るまで奥の院におわす姫君だろう?」

 優雅に首をかしげてみせるシーレン卿。

「十年前にね」

 どっと笑いが起こる。

「気にするなよ」

 つまらなそうに隅の席で酒をすする青年にさすがに気兼ねして、声をかけるものがあるが、マリードは肩をすくめて応えるだけだ。

 口を開き、立ち上がれば、人々の目を集める魅力を持ちながら、目立たないことで保身をするようになってしまったことを悔いることもない。

 今この席で、マリードがこの場にいることを知っているのは三分の一もいない。知っているもののうちには、急に無口になったこの青年がカドルス太子の弟王子であることを知らないものもいたし、氏族の顔見知りのものも、半分は気づかないふりを決め込んでいる。

 ダンゼン一門の後ろ盾がなけれぼ、王座に座ることなどなかったはずのアルムイト王の末の息子など、ダンゼンのお墨付きがついてからご機嫌を取ればいいと言わんばかり、名のみの王子は礼儀正しい無視を受けるのがいいところだった。

「どんな方なのかね」

 冷やかし半分の声に対しても、王宮の美女に知らぬものなしと常日頃豪語するシーレン卿の言葉は滑らかだった。

「まだ七つだった、最後に会ったときには」

 シーレンは洩れる不満気なうなり声を圧するように言葉を継ぐ。

「しかし美の片鱗はそこかしこに現われていたよ。あの見事な銀の髪と言ったら。他には見たことがないね」

 マリードは唇を噛む。

「しかし、その美しい姫君がダンゼンの一門の家にお輿入れなさることは確かに決まったのかい。これまでだって許嫁の一人や二人……」

「そう、姫君にはとてつもなく素晴らしい縁談があったのさ」

 シーレン卿は一旦言葉を切って、注目する聴衆を一わたり見回した。

「エヴァイのカルキス公爵だよ」

 おう、と声にならない声が広間を満たす。

「なるほど、リテワのお偉方は、多少エーヴァ人どものご機嫌を損ねようが、偉大なるリュシ将軍を懐柔するほうが大事と踏んだわけか」

 皮肉な声が飛ぶ。

「確かにカルキス公なら、ことあればエーヴァの至高の王位さえ要求できる身分だからな」

「アンゲーリナ姫の母君はエムキアの王女、父君は無論リテワの主座にあり、レイムの王座に座られる方だが、その母君はやはりエヴァイの王女だ。エヴァイ王は代々子沢山だから、それほど意味のあるつながりではないが、決して無視はできまい」

「それほどの方が、たかが成り上がりの将軍の妻になるのか」

 上がるのは憤りを込めた声だ。恐らくマリードと同門のリテワの若者だろう。

「リュシ将軍を成り上がり呼ばわりするのか? もし卿がゾイ公なら、一国の王も同じではないか」

 いきり立って強く言い返すのは無鉄砲と評判の、ダンゼン・ロイム一の暴れん坊ミュロウだ。

「ダンゼン一門曰く、ダンゼンに国を治むる野心なし、人と富とはとうに統べり」

 ダンゼンを敵視するのを隠さないリテワの末門の集まる辺りから歌うような声が上がる。

「戯れ言を口にするな」

 ぴしゃりと声にしたのは、そのダンゼンのカルガイ家の公子、アバのスシュリ卿だ。

 中では激しく争うことで知られるダンゼンも、外に対しての結束は堅い。

(さてさて、誰がここの話をリュシ将軍にご注進に行くのかな?)

 マリードは杯をさらに進め、苦々しい思いを一緒にぐっと飲み込んだ。

 

(続く)

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