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街道の家

 

 堅い土の畝起こしに痛む腰をさすりながら目を上げると、砂ぼこりにかすむ先に、まわりの曠野より一段高い街道がまっすぐ続いている。
 よろけて一歩足を踏みだすと、乾いた土くれが足元で踊った。
 雨が足りない。いったい何年こんな季節が続いただろう。
 街道の脇にあった小さな村がこの数年で廃屋ばかりになり、強い風の吹き込む東側の壁と屋根を低くした特有の、この地方の作りのたった一軒の石積みの家が残っているだけだ。
 井戸もわずかに湧くのが一つだけ。
 その寿命が尽きる日も遠くはないだろう。
 しかし女と年老いた姑はこの場所にとどまっている。
 ここを離れてどこに行くと言うのだろう。

 

 何かが見えた。
 目を凝らすと、男が片足を引きずって歩いて来るのが見える。
 遠くの大地が熱く熱せられ、大気が揺らいでいた。
 幾度となく遠い王都や戦場の間を軍勢が行き来し、忙しく人々がこの街道を通ったのはもうずいぶん前のことだ。
 その証しに、この道はもうずっと補修されることもなく、かつて道を守っていた並木の姿もまばらに、突き固められた舗装もあちこちが崩れているではないか。
 たとえ誰かがこの道を来ても、そのほとんどがただ通り過ぎていく。
 まれに旅人が女の家に立ちより、一杯の水や食事を所望することもあれば、一夜の宿りを頼むこともある。
 女二人の住いであれば、よそ者を招き入れることも用心してあまりなかったが、かつては夫の、そして若夫婦の寝床であった寝台を旅人に明け渡して母親と一緒に休むこともあれば、時に自分の寝台に不在の長い夫に似たところのある者を招き入れることもあった。
 それでわずかばかりの金を得ることさえ。
 もう、女を責めるものはないから。

 

 求められるまま、わずかばかりの羹を、夫の使っていた器に入れて出してやった。
 これで女と母親のとぼしい食事は半分になった。
 しわがれ声で男は語った。
 手は何度ともなく大きく震えた。
 緑溢れる懐かしい故郷のこと、待っているはずの家族のこと。
 年若い妻を置いて、戦場へ向かった青年時代。
 若き英雄にあこがれて、無謀のままに冒険に乗り出しては手痛いしっぺ返しを食らったこと。
 悲惨な戦いに従軍したこと。
 何年も虜囚の身であったこと。
 ようやく開放されて家路についたはずが、あれこれとあってなかなか旅を始められなかったわけ。
 長い戦乱の年月に何もかもが変わり果て、思うように道がたどれないこと。
 女には返すべき言葉などなかった。
 片目の白く濁った男の世界はそこで閉じていて、女のしわだらけの日焼けした顔など、本当に見てはいなかったから。
 女にとってはそれは呪いであり、そして救いでもあった。

 

 あの馬鹿者が!
 母が息子を罵る声はつぶやきにはなった。
 行ってしまったね。
 再び遠ざかっていく小さな影を見送りながら母と目を合わせても、その言葉が口に出されることはなかった。
 口にしてどうなるというのだ。
 女は再び小さな畑に立ったが、もう夫を待つことがないのを知っていた。
 二度と、その姿を見ることがないと分かっていた。
 ここはもうすでに、夫の故郷ではないのだ。
 乾いた頬にはもう、涙など流れなかった。

 

(終わり)(改訂 98/02/01)


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