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長い影

 

 

 はっと気づくと十時を過ぎていた。
 ぼんやりと見てもいなかったテレビを消して、わたしは立ち上がると部屋の隅に転がった財布を引っ掴んで部屋を出た。
 月曜の十時には電話を入れる約束なのだ。
 古い家とアパートの立ち並ぶこのあたりには公衆電話があまりない。狭い道の歩道を電信柱をかわしながら走り抜けると倉庫、角を曲がると何台も並んだ自動販売機があり、その中に埋もれるように緑の電話が立っている。
 週に一度しかかけない電話番号だが、どこにかけるよりも速く指がボタンを押す。
 いつもと同じように3コールが終わると同時に母が出た。
「もしもし」
「元気?」
 うんとうなずく。
「来週、みんなで北海道に旅行に行くの。火曜日まで帰らないから」
「わかった。電話しない。それじゃ、また」
 手短に言って切った。
 ものの二十秒というところか、それでも二十円落ちた。
 つとめて余計なことは言わないようにしている。
 無事に生きていることさえ伝わればいい。母はときどき不満のようだが、わたしの気持ちはある程度わかっているはずだ。
 母の幸せや人生の邪魔にはなりたくないし、自分が迎合することもできない。

  

 バイトも学校も、自分が想像してきたものと本当に違うものではなかったし、せいぜいがとこ想像したのと同じ線上をもう少し先に行っただけのものだった。それが辛いわけでもなく、不満があるわけでもない。
 たった一人でこの町に暮らしていることで、自分という醜い存在から自由になれるような気がしていた。自分を欺いているだけなのだとはどこかで悟っていたけれど。
 強くなりたかった。血を分けた子である自分を頼りにしないように、まだまだ気丈な母の、差し出されてもいない手を振り払いたかった。まだまだ若く美しい母の、女を憎みたかった。

  

 その夜は、悲壮な顔をした近所の女子高生が緑の電話に張り付いていて、すぐには空きそうになかった。
 どこに電話があるか気にしながら歩いたことなどないから、他の電話を探すのは大変だった。
 さんざ歩いたあげく、パチンコ屋の激しいネオンの前にしか電話がなかった。
「もしもし」
 声が聞き取れなくてもう一度繰り返した。
「お母さんは具合が悪くて寝ています」
 妹の沙緒里の声だった。
「え」
 時間までわかっていて起きていないのか。電話のベルの音が聞こえても起きてこないのか。 母の性格では考えられないことだ。
「悪いんですか」
「よくわかりません」
 相変らず生真面目な声だ。父親そっくりだ。
「お父さんは?」
「まだ帰ってません」
 少しだけ不安気な声が交じった。
 毎週月曜日の夜だけダイニングで電話を待つ母の姿は、一緒に暮らして日の浅い妹にももうなじみのはずだ。
「そう」
 言葉に詰まった。沙緒里と電話で話したことなどほとんどない。妹とは何を話せばいいのだろう。
 母の様子は気になったが、どう聞いたらいいのかわからなかった。
「……学校とか、どうしてる?」
 芸のないことを聞いてしまった。
 たまに話す父親もいつも同じことをわたしに聞く。ほかに話し掛ける言葉はないようだ。やはり沙緒里には違うのかも知れないが。
 わたしは新しい父にも妹にも家にも苗字にもなじんでいない。
 大して話すこともなく、私は電話を切った。
「変わりないとだけ伝えてください」

 

 独り暮らしをはじめてすぐ、私は髪を切った。
 郷里にはあまりないしゃれた美容室の床に長くて重たげな自分の髪の束が音を立ててばさばさと落ちていくのを横目で見ながら、私は過去の自分を切り捨てているのだと思った。
 新しい自分が欲しいわけではない。
 ただ、このままではいられなかったのだ。
 私は独り立ちしたのだ。まだ一人では自由自在には走れないが、もう庇護される子供ではない。多少の無理は承知の上だ。
 たった一人で、空々しい騒音を放つ小さなテレビに見入っている自分に気づくとき、内心の思いを口にしてしまう寂しさにひるむとき、その決心は大きく揺るぎはするのだが。
 もう、母と一緒には暮らせない。
 自分と一緒に生きる人は、これから探さなければならない。この広大で冷たい世界の幾多の人込みの中から。

 

「この間、具合悪かったって。どうしたの」
 必要以上に心配しているのが出ないように、平坦な声を装う。
「ちょっと血圧が高くてね。大丈夫よ、たくさん薬をもらってるし」
 母の無邪気な声には、薬という言葉が私の心配を増すことなど思いつきもしないだろうことがうかがえた。
 思わず涙が溢れた。
「わかった。無理しないでね」
 いつもの倍以上、度数が落ちた。

 

 夕暮れの空の下、何かに追われるままに走っている。
 長い影を落とすものに怯え、何に追われているかを知らず、なぜ逃げているのかを知らず、自分が誰なのかも知らず。
 いつか立ち止って向き直る。私を脅かすものに立ち向かう。
 そんな勇気が欲しい。

 

(終わり)(改訂 98/02/01)

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