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真夏の夜の
金がない。
今日も隣人にもらった果物と、薄汚れた椀に盛られたうどんの切れ端だけ。
ちなみに職はない。
労働許可もないし、ビザはあと半月で切れる。
ない金をひねり出して、学校にも通ってはいるのだが、まだ言葉はよくわからない。
机に向かって何かを頭に詰め込むということをしなくなって久しいからだろう。
英語も日本語も通じない。
時々熱がでる。噂に聞くマラリアかも知れない。
いや、そうだったらもう死んでるだろう。
下痢がひどくても、日本から持ち込んだ強力な抗生物質とアメリカ製の薬とで、何とか持たせている。 生水が悪いからと、ビールばかり飲んで、昼間から飲んだくれる、毎日だ。
実のところ、酒には弱いのだ。仕事をやめて、この国に潜り込むための航空券をどさくさに紛れて手に入れたのは、もう半年近く前のことだ。
幸せがあるわけじゃない。思ったほどいい男がいるわけでもないし、気のいい人ばかりがいるわけでもない。ケンみたいな人は全然いない。
日本にいたのは、そう前のことじゃない。
苦労して就職した会社を二か月でやめ、アルバイトとフリーライターのまね事、本当のフリーターとして暮らしていた。
母の身体の調子が悪く、一度帰ったら、二度と東京は戻れないような気がして、何年も正月にすら帰っていない。
心配よりも、自分の生活が大事だったのだ。
学生時代、OL時代、住いを変えるたびに、だんだん川沿いとか、下町とか、駅から遠いとか、条件は悪くなり、最後には、銭湯が開いていない時間に帰れない仕事になってから、家賃の滞納が始まった。
今振り返ると、あれは転落だった。
真っ逆さまに落ちて行く。
朝起きられない。付き合いから夜遊びが増える。肌はぼろぼろだから化粧品がたくさん必要。
ドリンク剤。そしてちょっと危ない得体のしれない薬。詳しくは言わない。
変に切り詰めては散財する。
学生時代に付き合いの合った友人が櫛の歯が欠けるように減っていき、男友達も出入りが減り、怪しげな友達だけが残った。
日当たりの悪い四畳半のアパートの居候の住民が三人になったとき、私は逃げ出した。
アジアの国々を転々とした。日本のパスポートがあるだけで、移動には困らない。
どんな町にも安宿があり、ごろごろと当てもなく繰らすのは簡単だった。
これからどうするって?
縫製工場で働く若い女の子達が詰め込まれている小さな寮に潜り込んで、昼間は町の木陰で昼寝。時々砂だらけで油の浮いたビーチまで遠出する。
金はない。
カードも使えなくなった。
父にも勘当だと言われているから、親に金を送ってもらうわけにも行かない。
数少ないまともな友人が一万二万と送金してくれたこともあったが、結局絶縁を言い渡されてしまった。
弟が探しに来たが、逃げて山に二週間こもっていたら、帰った。
言い寄る男がいないでもないし、それなりに楽しめもするが、所詮それだけのことだ。
旅行会社の現地ガイドは二週間で首になった。時間が守れないからだ。
場末の日本料理店でウェイトレスもやったが、新しい熱心な従業員が入ってきて首になった。
日本人ゴロなんていくらでもいるからだ。
今はまだだが、いずれ町に立つことになるのだろうか。
誰か、私を殺してくれないか。
帰りたいとは思わない。
だけどここにずっといたい訳じゃない。
私は何がしたいのか、そのために何を努力すればいいのか、分からなくなってきたんだ。
この先どこに逃げ出せばいい?
何が追ってくるのかもよく分かってはいないのに。
私は逃げ続けている。
向き合う勇気もないままに。
誰か私を粉々に壊してくれたら、もう一度やり直せるかも知れない。
それともそんな希望を抱いてはいけないのか。
正直に言って、解決策を思いつくより先に、熱さに頭が腐ってしまいそうだ。
ごめんね、こんな手紙を書いて。
私が逃げ出したのはあなたからだったのかも知れないから。
ケン、私は助けが欲しいの。
あなたはいつだって真摯で、私に何度も忠告してくれた。
それをどんなに恐れていやがったことか。
でもこの手紙があなたに届かないことは知ってる。
だってわたしがあなたを殺したんだから。
あなたの死体はまだ居候が居座っているアパートの畳の下にあるはず。
それとも、あれも夢だったのかしら。
ここでみる熱帯夜の夢……
(終わり)(改訂 98/02/01)
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