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 夜明けに立ち尽くすもの

            

 

 

 

「交代だ」
 暗がりをわずかに照らしだす篝火の火を横目にそう兵士が告げると、彼より更に若い歩哨は嬉しそうに少し出っ張った歯を見せた。
「異常は?」
「ありません」 決まり切った交代の文句さえも、これから眠りにつくものにとっては子守歌のようなものだろう。
 跳ねるような足取りにわずかに長時間の立ちっぱなしの任務の疲労を残して、若い兵士は兵舎の固い寝床に向かって去っていった。
 連日の交代勤務で眠れる時間は少なく、疲労は増していたが、夜こうして歩哨に立ち、闇をにらむことは決して嫌いではなかった。
 すでに気温は下がり始め、高地であるこの陣地にも寒さが忍び寄っていた。
 兵士は襟を立て、懐から取り出した汗くさい布切れを首に巻いた。
 彼の年若い妻が裁縫の手間賃代わりにもらった絹の端切れで作ったものだ。見てくれはよくないが、軽くてあたたかい。
 元気でいるだろうか。病気などしていないだろうか。心配しているだろうか。
 兵士は、自分の手で作った小さな家のみすぼらしい部屋でも小鳥のように笑う妻の笑顔や、自分の腕の中で悶える紅潮した頬を思い出してほほえんだが、同時にひどく胸が痛んだ。
 里心がつくと、帰れなくなるぞ。
 それは同じ部隊の少年兵たちに兵士自身が与えた言葉だった。
 敵を蛮人と罵り、嘲ることは、戦うためにも必要なことだったが、彼らを侮ることはできない。最強を誇っているはずのサブラの兵は、一度たりとも粘り強い山人どもに完勝したことなどないのだ。事実上の国境が、低い丘を連ねるシラルダの防衛戦を越え、オイベル川の岸まで南下したことも過去に何度もおこったことだった。
 南にサブラの肥沃な大地、北と西に貧しい山国のマラセナ、タイタシ、南東には大国エヴァイと、この歪んだ陸塊を支配する国々の接する国境地帯、それが今日もまた戦場となっているこのアダリン高原だった。

 

 気がつくと、見張るべき闇ではなく、距離を置いて焚かれている篝火の方をぼんやり見ていた。人はどうしたところで闇より光を好むのだ。
 火は闇をかえって深くする。
 それでも焚かずにおくことはできない相談だった。
 誰もが広がる闇を恐れるからだ。
 兵士は灯りから目を背け、一心不乱に闇を見つめた。
 しばらくすると、視力が戻ってくる。
 荒れた大地に転がる石くれも、闇に沈むような潅木の茂みも少しずつわずかながら見えるようになってきた。
 目を閉じれば、頬にかすかな風を感じることができる。
 闇の中に響く音と言えば、わずかなものだ。篝火の向こう、遠くに立っている別の歩哨の時々歩き回る音、岩影を走り抜ける砂とかげの立てるさらさらという音、眠れぬ馬のいななき。
 今日は闇月ではない。
 とはいえ奇襲がないとはいえなかったから、兵士はそれをどこかで恐れていた。
 ここはアダリンの野、神代の昔から幾百、幾千年の間、人々の戦いの舞台となった古戦場だ。静かに眠れぬままさまよう亡霊が多くても不思議ではない。

 

 かすかに血の匂いを感じたような気がして、兵士は鼻をひくつかせた。
 決して歴戦の勇士とはいえないが、この遠征に出てからもすでに、何度か激しい戦いを経験している。この匂いはよく知っていた。

 

 兵士は思わず悲鳴を上げそうになった。
 すぐ目の前にそれはあった。
 力なく頭を振り続ける動かない兵士、引きずられた屍、杖代わりの剣で身体を支えても前に進めない男、傷だらけの鎧、血のにじんだ灰色の包帯で巻かれたからだ、乾いた薬草の貼り付けられた顔、荒縄で吊られたちぎれかかった腕、柄を折った槍の突き出した背中。
 薄闇の中から、あとからあとから湧きだしてくるのは、ぼろぼろの姿の兵士たちだった。
 それが幻であることはなぜかすぐにわかった。
 闇の中の人影の身に付けているものが、兵士の部隊の装備とはずいぶん違っていたのも理由の一つだろう。
 血に染まった外套も、下げている水筒も、見たことのない古くさいものだったし、祖父がよく昔語りにしてくれた、氏族の男たちの入れ墨を頬に入れているものもいた。
(なんだ……?)
 次の瞬間にはその姿は消え失せていた。
 兵士が見ているものはもはや闇ではなく、しかし光でもなかった。
 見る間に夜は明け、また日は沈み、砂嵐や豪雨がそして灼熱の日差しが兵士の目の前に踊った。
 空をおおう雲は恐ろしい速さで流れ、太陽は天空を目まぐるしく飛び、月星は短い夜に夜空を回った。音もなく、立っているこの大地が砂のように脆く崩れ落ちては、またその幻も消えては現れ、現れては消えることを繰り返す。
 裸の戦士たちが乾いた大地を走り抜けていく。
 砦を築く石材を運ぶ人夫たち。
 真紅の装束に身を包んだ騎馬の群れ。
 横殴りに叩きつける雪に埋もれる隊商。
 まばゆいいかずちを手に戦う古き神々。
 神々を讚える歌を歌い続ける僧兵の部隊。
 大地を蛇のように這う大軍が進む地平線。
 竜巻がいくつも並び立つ紫色の空。
 宙を横切る無数の矢の描く美しい弧。
 広い谷を埋め尽くす兵士と、風になびく色とりどりののぼり。
 地をはいずって命乞いをする敗残兵。
 血走った目の農民兵。

 声を出すことなどできない。
 身動きすることさえも。

 見開いた目からは、ただ涙が流れ落ちた。

 

 

「交代だ」
 兵士はびくっとした。
「どうした、眠っていたか」
 からかうような馴染みの同僚の声に、兵士はようやく声を出すことを思い出した。
「いいや」
 声はかすれた。
「目が覚めている顔じゃないな」
 澄み切った朝の冷たい空気のなかに、笑い声が響いた。

 

「ほれ、たんと食え。あったまるぞ」
 強ばった足を無理矢理動かして向かった哨戒明けの兵士が集まる小汚い飯場で、ぶっきらぼうに突き出されたのは、使い古した木の椀に盛られた温かい羹だった。
「あちち」
 ぼんやりついでにすぐ口をつけては舌に火傷し、改めて湯気を吹きながら少しずつのどに流し込んだ塩味の汁には、わずかに野菜の切れ端と脂身の小さなかけらが浮かんでいただけだったが、腹に染みとおると不思議と眠気をぬぐい去ってくれた。
 すべての幻は、この確かな朝の世界から去ったように思われた。
 兵士はもう一度身震いし、ぐっと椀を傾けてまた火傷を負った。
 それさえもまた、喜びだった。

 

 

(おわり)(改訂 98/02/01)

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