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2、世界が崩れ始めた日

 母の本を読んだのは、はじめて大学の図書館に行った日だった。
 正直に言えば、本を手に取るのは苦痛だったし、思わずあたりを見回してしまったぐらいだ。
 堅い、真面目な文章だったが、私の少ない経験からは、嘘や誇張はなかったし、何よりも、熱意に満ちていた。
 私はまるで母がすぐ隣にいて、熱っぽく語りかけるのが聞こえるようだと思った。
 ちょうどこんな感じに。 

 「軍事的な干渉やら実力行使やらが、準光速ミサイルだの高エネルギー砲のことだと思ったら大間違いよ。
 奴らはそんな金や手間のかかることはしない。
 私たちの必需品、ライフラインというのはなんだと思う?
 通信設備や輸送手段というのがある。
 娯楽の手段を奪われたり、家族や友人との通信を奪われたとしたら?」

 

 惑星開発公社。
 人類の生きる場所をこの宇宙に確保する、素晴らしい組織なのだという幻想を、ほんの少しは持っていたのに。
 いったい今まで、私は何を見ていたのだろう。
 母の言葉は、執拗なまでに、歴代の植民惑星の開拓や移民、管理の姿をあらゆる記録から洗いだしていた。
 惑星開発公社。
 その名の持つまがまがしい響きが私にも次第に理解できるようになってゆく。

 

 入植者の生活を支えるのに必要な開発に許可をわざと出さなかったら?
 風土病の予防に必要な新ワクチンの製造に認可を与えなかったら?
 所得にかかる税の算出基準を地球生活者の標準モデルから改めなかったら?
 入植者の納税猶予期間を予告なしに短縮したら?
 惑星間の定期便の増便の許可を出さなかったら?
 不定期便のチャーター申請手数料を何百倍にも引き上げたら?

 こんな惑星に来てまで母の著書を読む羽目になるとは思わなかった。
 これまで無造作に母の仕事場に並べられていた本を敬遠していた私が悪い。
 母の本を読むことがどうして母の生き方に迎合することだと思い込んでいたのだろう。もっともちゃんと読んでいれば、こんなところには来ていなかっただろうけれど。

 

 地球は老いた母である。 いつまでそのくびきにつながれているのか?
 一人で立つことができるというのに。

 惑星独立のムーブメントでは使い古されて陳腐になった言い回しだ。
 この文章が母の初期の著作からとられていたのを私は知らなかった。母は先鋭の活動家からは穏健派と陰口をたたかれ、体制への迎合を非難されているらしいが、どうして、こんな扇動的な面もあったのだ。
 私は母の本、電子ブック、流通用のテキストデータ、そういうものがが発禁処分になっていない理由が初めてわかったような気がしていた。
 母は活動家しか読まない本は書かない。
 そういうことだ。
 母はまだ無事にいるだろうか。
 生きて、まだ書き続けているだろうか。
 無性に母に会いたかった。

 

 母へのつまらぬ反感から、同時代、同世代の最大の課題だった、植民惑星の独立問題について知ろうともせず、遠ざかるばかりだった私が、曲がりなりにも母の著作を手に取り、理解しようとし始めたのは、一人の青年との出会いがきっかけだった。
 気取って語るまでもなく、幼い恋に落ちたのだ。
 男と恋愛して、何かに目覚めるなんて、格好悪いことこの上ないが、本当のことだからしようがない。
 ルイジ、その名は未だに胸に突き刺さったままの刺だ。
 激しく身動きすれば深い奥で痛む。
 ルイジ・コーニ。

 

 彼は大学の中央図書館でアルバイトをしていた。
 私が母の著書をはじめて借りた日のことだ。
 最初のうちは、記録に残るからと、借りだすのを避けていた。電子ライブラリへのアクセスも記録が残る。
 それでもそのうちに我慢できなくなり、覚悟を決めて借りだすことにした。「これ、貸し出しお願いします」
 機械化されていないカウンターに他の数冊の本に隠すように本を差しだしながら、そういえば、公共施設の丸ごとオートメーションの高い設備を売り付けるっていうのもどこかに書いてあったな、と思いだしていた。
「カードを」
 ぼんやりと、手帳に挟んであるIDカードを探る。
(あれ?)
 ない。
 ポケットから鞄から、慌ててひっくり返していると、カウンターの青年はすっと奥へはいっていった。
(通報するのかな)
 被害妄想か、自意識過剰みたいだけど、そのときは真剣にそう思ったのだから仕方がない。
「これ、君のじゃない?」
 青年が差しだしたのは、間違いない、私のカードだ。
「さっきゲートの近くに落ちてたんだ」
「あ、ありがとうございます」
 声が震えた。
「まだ、拾得記録簿つけてないから、そのまま持ってていいよ……へえ、お母さんの本なんか借りるんだ」
 大きく息を吸いかけて、カウンターに本を揃える彼の軽口に心臓が凍り付いた。
「なに、こっそり借りたいの? それじゃ俺のを貸してあげるよ。彼女のはほとんど持ってるから」
 オリガ・カーンの娘エリカ・カーン。こんな名前じゃ気づかないほうがおかしいけれど、このときほど心臓に悪い思いはしたことがない。

 

 ルイジ・コーニ。
 イザーン一の農場地帯であるカッシャ大陸東部の大規模農場の後継ぎ息子、専攻は海洋工学と美術。
 自分のことを好きになる人がいるなんて、こんな私を好きな人がいるなんて。
 それを教えてくれたことこそが、私がルイジから受けた最大の贈り物だったのだと、今になって思う。
 ルイジは広い宇宙で独りぼっちだと、孤立していた私に、自分を愛することを教えてくれた。だから彼の仕打ちを恨むことは止めようと思っている。
 彼の女癖が悪いとか、酒癖が悪いとか、借金は返さないとか、怪しげな商売で小金を稼いでいるとか、教授連中と喧嘩ばかりしているとか、そういう噂はだんだん耳にするようになったし、そのほとんどが事実だということは追々悟っていったけれど、それでもルイジに対する気持ちが変わったわけではなかった。
 考えなしの子供っぽい言動も、思いやりのかけた態度も、彼を嫌う理由にはならなかった。
 彼が私に手を上げるようになったのは、連邦の艦隊襲来のほんの三週間ばかりの間のことだった。

 

(続く)

 


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