闇月の風
1 断崖の雛鳥
カライは飢えていた。
今にも腹を食い破って第三の魔の手が現われ、カライの回りの何もかもと一緒にカライ自身を食べ尽くしてしまいそうだった。
だから、寒さを気にしてためらっている暇などない。
あたりに人影のないのをきちんと確かめるには、すでにカライの身体は冷えきっていて、縮めた首さえどうにも満足に回らない。震えが止まらなかった。
「落ち着け、落ち着け……」
気がつくと、カライは祈りの言葉を口にしていた。
「心静かなるときは、内に焦りのないよう務めるとき……」
カライは足音を忍ばせようとするが、ひび割れだらけで血のにじむ素足にはいた皮の靴は、どんなにこらえても、でこぼこの石畳に当たった堅い木の踵が虚ろな音を立ててしまう。
息をひそめて忍び込んだ薄暗い鶏舎の中は、吹きさらしの回廊に比べればずっと温かく、埃っぽかった。
いきなりバサバサッと激しい羽音が耳元でして、カライは思わず悲鳴を上げ、顔を両手でかばいながら跳びすさった。そのまま勢い余って石積みの壁に背を強く打ちつけてしまう。
息ができない。
誰も気づかなかっただろうか。
カライはその場に凍り付いたように立ちすくみ、身体中に広がる痛みに大きく息もつけないまま耐えながら、全身で坊の方向の気配を感じようとした。
(見つかったらどうしよう。誰か気づいたらどうしよう。)
何も感じない、誰も気づいていないと確信したのはずいぶんたってからのことだ。
さわぐ鶏は多くはなかったが、まるで不埒者を脅すように羽毛や塵を巻き上げる大きな羽ばたきや、怒ったような鶏のつぶやきのたびに、カライはまた肝を冷やした。
冬はさらに深まる。
じきに、一歩も外に出られない吹雪の日々が続くようになる。
普段はそれぞれに割り当てられた房で寝泊まりしている僧たちも、食堂の隅で焚かれた火の回りに寄り集まる。朝も昼もなくただ祈りに明け暮れる、雪に閉じ込められた暮らしを始めるのだ。
そうなってからでは、カライのこの飢えを満たすのには遅すぎる。
痛み放題の石葺きの屋根を掛けただけの渡り廊下には肌を切り裂く冷たい風が吹き込み、鶏舎の石積みの灰色の壁を背にして粉雪が舞っている。
廊下の外といわず屋根の下といわず、どこもかしこも雪まみれだ。内陣に積もる雪は僧院中の僧の毎日の修務で取りのけられてはいるが、もうそれを運んで行く先がない。
僧院を取り囲む壁に向かって高くなる、積み上げられた雪の山は、冬が深まるにつれて、広くもない中庭をいっそう狭めていた。
手足は氷のようだったが、それでもカライは寒さをろくに感じていなかった。
もし見つかれば、盗みと、信仰に対する冒涜の罪とに咎められ、何日もの間、鞭打ち、断食、寒の行をすることになる。この季節の断食は、死と隣合わせだ。その行のほうが今よりもっと寒いに決まっている。
長い長い冬のあいだ、カライの口に入るものと言ったら、来る日も来る日も、わずかばかりの薄い米の粥ばかり。
その他には、すぐぼろぼろになるので、誰もが布切れに包んで屑まで残さず食べる軽焼きのパン、それに冬も越さぬうちからかび臭い芋を、ろくな味付けもないまま煮たもの。その繰り返しである。滅多にないことだが、たまに干したエルナ果や味付け干し肉が一かけらでもあれば、それはこの上もなく豪勢な御馳走だった。
週に一度、荒塩一片、白く固まった質の良くない油の塊ひとつずつが各人に配られるが、週の終わりまでそれが持ったためしもなく、これだけでカライのいつも空かせた腹が満たされるはずがなかった。
それでもカライはこの冬を生き延びなければならない。
これほど雪が深くないうちならば、下の谷の砦の兵舎に紛れ込み、荒っぽいが気のよい国境警備の兵士を丸め込んででも、何がしか食べ物を手に入れることもできたろう。どちらにせよ、砦までの道を、全身が沈む雪をかき分けて下る元気は出しようがなかった。吹雪に視界を失ったら、どんなに近い距離でも、よく知る道でも、帰れなくなることを幼いカライもよく知っている。
これが盗みだとは、カライにはもう思えなかった。
そう何度も鶏舎に忍び込むのを試みたことがあるわけでは決してない。とはいえ、盗みは初めてではない。これまでここで実際に見つかったことはないが、見つかったら何が起こるのかはよく知っている。食料庫に手をつけて杖打ちされる若い修業僧を見たことは何度もあるのだ。いくらカライが誓いを立てた修業僧ではないと言っても、院長の私的な養い子に過ぎないカライは、その存在を許されるためにも、より厳しく戒律と規則に従わなければならない。
それでも、自らの手の内にないものに手を触れるな、という戒律の言葉は、今のカライの行動を縛りはしなかった。
カライが物心ついてからのいくたびかの冬にも、これほどの厳しさはなかった。北の蛮地からサブールの野全てに渡る二年続きの不作は、人々の食物を等しく奪っていた。
去年も一昨年も、確かに冬の間はひもじかったが、今年ほど粥が薄いのは初めてだったし、軽焼きのパンの大きさときたら去年のせいぜい半分で、そのうえ滞りがちだった。
心静かに冬を過ごすはずの僧たちの間にも、しだいに苛立ちが広がり始めていた。最初にあたられるのはカライだから、それはよくわかった。
卵はまだ温かく、カライはその場であっという間にひとつを割って飲み込むと、震える両手に掴めるだけ持って鶏舎を飛び出した。
一つでも落とすわけにはいかない。鶏の産む卵の数が減ることはあっても、鶏が卵を小屋の外に運べるわけもないからだ。
まず人など来ない墓地の入り口の門の陰に座り込むと、残りをひとつづつ食べた。卵はどれも小振りで量はなかったが、舌に重いほど濃い味だった。
一息ついて、卵の殻を重ねて潰しながら目を上げると、錆び付いた鉄門の透かし飾りの向こうに墓地が見えた。
塀の外の斜面のそこかしこに残るぬかるみが、黒く、鈍く泥を光らせている。止む気配もなく舞い散る雪がその闇の色に次から次へと飲み込まれていく。
土の湿った匂いまでが冷たい。息を吸い込めば鼻の穴の内側がひりひりした。
頬に、肩に積もる雪は、湿って重い。
窓のわずかな破れ目から坊の中へ吹き込む雪は、止むこともない。
城壁の外は凍り付く冬の世界だ。
苔ばかりの急な北向きの斜面の日陰の墓地の泥だらけのぬかるみには、葬られた命のない身体がいくつも埋まっている。片隅には、つい最近掘り返された新しい土の色がある。
カライのよく知る老人がほんの半月前、そこに埋葬されたばかりだ。
ぎゃあぎゃあと叫ぶ大きな翼の鳥の群れが、墓地の縁に立つ陰気な木々のあたりを飛び回っている。
カライは寒さのせいばかりではなく身震いした。
もしここで死んだら、あの冷たい土の下に永遠に眠ることになるのだ。
カライは十になるこの歳まで、このコンの地を離れたことはない。がらんと広くて埃っぽい聖堂や、空き部屋ばかりの僧房を遊び場にして、この僧院に育ったのだ。
黒衣に身を包み、無言の行を行い、足音を立てずに暗い回廊を行き来する、僧としての生活のほかをカライは知らなかった。
もっともカライは十にはとても見えないらしい。下の村にすむ同じ年頃の子供たちはひと回りもふた回りもカライよりは大きい。どの子供も背はそれほど高くはないが、骨太でがっしりしている。
僧院に暮らすカライの方がずっとよい食べ物を食べているはずなのにと、僧院の誰もが不思議がる。カライにしてみれば自分がなかなか大きくならないのは、大人になれないのと一緒で、耐えがたいことだった。
僧院の立つ小さな谷を囲む険しい山々は、一年を通して消えることのない雪に覆われている。そそり立つ山の斜面に貼りつく僧院の塔は、山々の天を指す様子にも似て、高く、薄曇りの冴えない色の空を切り裂いている。
見上げる雲の流れは速い。
僻北の地コンは、サブールの北西に幾重にも連なる山脈の深い深いさなかにあった。山中に立つ僧院と、寂れた街道沿いに立つ荒れ果てた砦のほかには、この谷に人の手の作ったものは何もない。
夏にも雪の降ることがあるこのコンに、南の温暖な土地からはるばる訪れる粋狂な者はまずない。流れ者、お訊ね者がせいぜいだ。
人の往来を阻む高い山々は、長く東西に連なって、北の蛮人の住むタイタシ、マラセナとの自然の国境を成している。といっても、けもの道のような峠を越えて降りてくるのは、較べて幾らか豊かな南の国を目指して荒野を抜けてくる、タイタシ人の物乞いや、巡礼ぐらいのものだったが。
それでも北の空をさえぎる険しい山並みを越えて、北方人、タイタシ人、マラセナ人はいくたびも南の大地を目指してやってきた。その人の波を押し返し、サブールの地を保つ、その揺るぎない守りこそが、コンの僧院が長い間果たしてきた務めである。
かつてすぐ北に北方諸国との国境をなしたコンの峠は往時のにぎわいを失い、わずかに北方との交易路、あるいは北方からの巡礼路として、姿を残している。街道から姿はまず見えないが、谷をずっと下っていったところ、渓流の大きく蛇行するあたりには、コンの小さな集落があり、わずか何十戸ほどの掘っ建て小屋に、顔色の悪い、無口な人々が暮らしている。
こんな辺境の地にも人は住み、僧院が作られるずっと前からこの痩せた地を耕しているのだ。
しかしコンの村は度重なる戦乱に荒廃し、長く廃村に等しかった。
この僧院に骨を埋めるつもりはカライにはなかった。
かといって下のコンの村人のように、岩肌にわずかにしがみついた貧しい土地を耕し、野山を堅い裸足で走り回るようになるのも嫌だった。
しかしカライには、そのほかの生き方を想像できるわけではない。
日に日に、さぐる指先にも骨張ってゆく身体は、カライに長い冬の続く未来への不安しかもたらさない。
はっとして振り返ると、カライがもたれている聖堂の引っ込んだ戸口は、弔いの儀式の後に死者を運び出す死出の門だった。ダリューはこの戸口を通り、この鉄門を通り、あの斜面に葬られたのだ。
ダリューはカライが乳離れして間もないころから、世の子供には母親というものがいるものだとカライが理解するよりずっと前から、大人ばかりのこの僧院で、ひとりカライの面倒を見てくれた老人だ。
泣くんじゃない、泣いたって何にもならん。どうしたら泣かずに済むかを考えろ。
泣き虫のカライにかける、ダリューの口癖だ。
悪霊に、暗やみに、心無い人の言葉に怯えてばかりいたカライに恐れるものは今でも多い。僧院の中は神々の領域だというが、それをぐるっと囲むのは山々と、深い森ばかりだ。
風の音に怯える夜に、ダリューの低い声を思い出す。昔語りをし、道理を説き、犬寄せを教えた、嗄れた力強い声。
学問があるわけでもなく、ことさらに子供好きなわけでもなく、ただ気難しいばかりの老人だったが、数少ないカライの味方だった。
ダリューの亡骸の埋葬されたあたりを囲むように古い墓標が並ぶが、老人の魂のため、天へ帰る道標として立てられたはずの新しいクシャ杉の柱はどこにも見当たらない。
浅く掘られた墓穴を掘り返す、鳥や獣が倒して落したのだろうか。
魂は迷わないのだろうか? 天を目指して昇る間に。
カライは思わずにはいられない。
「もはや苦しみはない。痛みも寒さも嘆きもない。神々がその手を取って、魂は地上を去った」
弔いの言葉、鎮魂のための聖句が震える口をついて出る。
「痛みも寒さも、飢えも嘆きもない」
死は未知、どの道もがいつか行き着くその末だという。
ダリューの魂は安らかに神々の懐に抱かれているだろうか。それを知る術はカライにはない。
死は、魂の平安を約束されたものには恵み、そうでないものには永劫の罰。それがここでカライが教えられたことだ。
そして、盗みは悪いことだ。厳しく戒められることだ。
自分のものでないものを他の人から取り上げることが許されるわけはない。
だがしかし、こんな生活をして、どう高潔に正しくあれというのだ?
夜の明ける何時間も前、暗い廊下に一人立って起床の鐘を打ち鳴らす当番に起きる。立ったまま、眠気と寒さと戦いながらひっきりなしに足踏みする。辛い仕事だ。
この冬一番に冷え込んだ朝、当番に立ったダリューは鐘を打つ前に死んだ。コンの冬のこの厳しさは、年寄りには強いる無理が大きかったのだろう。
あかぎれの手で凍りかけの水を汲み、何度となく往復しては炊事場の瓶を満たす朝の行。手が滑って汲んだ水を足にかけたりすれば、あっという間に擦り切れた皮の靴が凍り付く。井戸水も汲み上げればすぐに薄氷が張る朝の寒さは、言葉には言い尽せない厳しさだ。
足元からひたひたと押し寄せる冷気と、いくつもに別れて押し寄せる眠気の大きな波と戦う朝の祈祷は、長く果てない。
中庭で泥を撥ね上げ、掛け声を上げながら組み合い、汗を吸って黒ずんだ棍棒で打ち合う体術の時間。おざなりに身体を動かした学僧たちは位階の高い順にさっさと引き揚げる。それでも最後に使い手たちが腕試しを終えるまでは、カライは屋内に戻ることもできない。一度も投げられずに済んだことはないし、あざを増やさないで終わったこともない。
火の気のない教場や図書館での長い勉強時間。時折沈黙の行を課されることもある。
繰り返す祈祷、吟唱、祈祷、吟唱、祈祷、吟唱。
岩山に囲まれたコンの僧院では、老人は病に倒れ、若者は狂気に倒れる。葬られる死者は絶えない。
毎日が寒さと孤独感との戦いであるが、それでもカライには当たり前の日常だ。僧院にいる誰もが、神々と共にある喜びを得るために同じような生活をしているのだから。
しかし、この世では誰もが同じようにこの苦しみを耐えているのだろうか?
カライは知らない。
コンの僧院に巡礼のための救護院としての役割があったのは、もうずいぶん前の時代のことだ。こんな最果ての地に僧院が築かれたのは、北にタイタシ、マラセナ人の帝国が栄えていた遠い昔のことだという。
そのころコンは北に対する要衛の地であった。
険しい谷に向かって二重三重に築かれた防壁のある僧院の造りは、砦以外の何物でもない。
ここに砦を築かせたのは、かつてこの山中にあったという銀の鉱山の存在だった。タイタシ人の国との国境の山脈には、交易のためにいくつもの新しい峠道が作られた。
善良な巡礼が道に迷わないようにと鐘を鳴らし続けた僧の話をカライは好んだ。霧の深い日にも、嵐の日も、吹雪の日も、夜も昼も、この僧院を目指して進む人々のために、若い修業僧は擦り切れて血のにじむ両手で鐘を鳴らし続けたのだという。
巡礼の道標となったのは、血の道標と呼ばれる赤い砂岩の小さな塔である。
街道にその赤い岩を積んだのは、巡礼、異国人、異教徒、そして貧者たちだった。
巡礼のほかにコンを訪れるのは、攻め寄せる北の略奪者だけである。
彼らは闇月の夜に、沈黙のまま神々に祈りを捧げ、贄を闇にほふると、そのまま音もなく敵に忍び寄り、山刀を振るってはその息の根を止めるのだ。
それがその昔、アダリン高原で、オイベルの川辺で、伝説の時代からサブールの民が目にしてきた、常に変わらぬ彼らの戦い方である。
数百年がすぎ、北方戦役の勃発に伴って、街道の道筋に新しく築かれた砦にほとんどの兵士が移ったものの、常に僧院には、いかつい黒の武装に身を包み、見渡すかぎり陶器を焼く窯の煙が上がっているという不思議な町、ジェンナ製の陶器の鉢をぶら下げた僧兵の姿があった。
コンの人々は、いつ押し寄せるともわからない蛮人に対する恐怖と背中合わせに暮らしているのだ。
今となっては、コンの僧院は、死者を弔い、死霊を安んじる死の神殿でしかない。
北への道は、死者の国へと至る道なのだ。
雪を頂く国境の山脈は、常に変わらぬ姿でくすんだ北の空を支えている。
冬の厳しい寒さはまだ幾重にも、灰色の山並みを越えて波のようにやって来る。それでもいつかはその流れもとまり、南の緑の大地から、春が緩やかな歩みで登ってくるのだ。
それはカライの気が遠くなるほど、遠い先のことだが。
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