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闇月の風

  

2 解けない結び目

 

 

 決して指折数えたりしていたわけではなかったが、リンがその日をひそかに心待ちにしていたのは本当だった。

 緑深いレイムの奥の院を出て、エデ川のほとりの懐かしい我が家へ帰る日だ。

 この野暮ったい白と黒のごわごわした制服とも、十人が一度に寝起きする大部屋とも、退屈な授業や礼拝の日々とも別れを告げるのだ。

「アクテ! アクテ!」

 人気がないのを幸い、静寂の掟を破ってリンは大声を上げる。

 どうやったら叱られずに済むかを加減できるようになったのは、奥の院の少女達の間でも古顔となったごく最近のことだ。

「なんですの、ルイテ・アギ」

 リンが声をかけた仲良しの少女は、気取った様子で答える。

「やめてよ、ミージャ先生の真似」

 くすくす笑いながら二人は互いをつつき合う。

「さっき話してたのよ。一の坊にいるルイテ・アギって、本当は王女さまなのよね。知ってた?」

「ふうん、そうだっけ」

 リンの返事は上の空だ。奥の院では、どの氏族の者もどんな身分の者も関係なく、誰もが神女として暮らすから、気にしたことなどないのだ。

「それより、大祭まであとたった四日よ」

 感じ入ったようにリンはつぶやく。

「ここを出ていくのね。恐ろしいような気がするわ」

 アクテがこっそり言う。

 リンは笑いだした。

「何を言っているのよ。家に帰るんじゃない。最初にあんなに泣いて帰りたがったのは誰よ」

「そりゃそうだけど」

 アクテは口をとがらせた。

「外でどんなことが待っているかなんてどうして分かって?」

 アクテは長い睫毛を伏せる。

「……ここにいれば、怖いことは何もないもの」

 奥の院から出ていくことがすでに決まっている同じ年頃の少女たちは、その日を前にして、どこでも寄るとさわると静寂の掟を放り出して、こっそりささやき合っている。

 ほとんどの少女は家に帰ると間も置かず、結婚することが決まっていた。婚約が幼いうちに整うと、嫁入り前の良家の娘のたしなみとして神殿の奥の院に入るのが、氏族を問わず、長い間レイムの貴族の家の習わしだからである。

 リンもその例にもれず、十三になるのを目の前に仮の婚約が済んでから奥の院に入った身だった。

 もっとも大氏族の大家の身分の高い娘たちは、大概もっと早く、幼いうちに婚約を決め、はるかに長い間、奥の院で生活している。

 愛娘がまだろくに目も開かぬうちから、良縁を得、また奥の院に入る許可を得ることができるのが身分の高い証となるのである。

 リンの父は名門公家の秘書官を務めるなどして宮廷内には一応の地位を持ってはいたが、リテワの氏族ではたいして格の高い一門でも家でもなかった。

 母を早くに亡くしたが、リンは不自由を感じたことなどないし、たいていの格上の家より暮らしぶりはよかった。

 年上の静かな神女たち、それから同年の元気な娘たち、面倒を見なければならないもっと幼い少女たちに囲まれた奥の院での毎日は、にぎやかだった。

 規則やぶりに胸を踊らせ、泣いたり笑ったり、祈ったり、こっそりおしゃれをしたり、内緒話に花を咲かせたり、陰口を叩いたり、不満をこぼし合ったり。

 不思議と芽生えた恋への憧れを隠すことはない。

 いつか物語のような恋をして、貴公子と結ばれる。

 そんな他愛のない夢だ。

 奥の院を去る日が近づくと、許嫁、時々は求婚者の手紙が、どの少女のもとにも舞い込み始める。

 実際には肉親以外からの手紙が許されることはないので、その手紙は母親からの手紙の一部だったり、親しくもない親類の名を騙ったにせ手紙だったりした。

「いいから、あなたに来た手紙を見せてよ」

「いやよ。あなたのを先に見せなさいよ」

『リンナさま。お会いできる日を楽しみに待っています。あなたのクレステ・ワシュード』

「だめよ、大声出しちゃ。静かにしてよ」

「わかってるわよ」

 奥の院を離れる春の大祭の日が近づいても、名前と四年前の顔ぐらいしか知らない婚約者と、奥の院の外の世界は、リンにとってはまだ現実にはならなかった。

 

 そして静かで穏やかで退屈な奥の院での生活にも遂に別れを告げる日がやってきた。

 物心ついていくらもたたぬままにここにやってきて、四年も暮らしてみれば、色々に制約のある籠の鳥の生活をたいして不自由とも思わなくなっているのは本当だった。それでもリンはその居心地の良さを捨てて、ここから自由になりたかった。

 何よりこの緑深い丘から出たかったのだ。

 レイムは海の都だというのに、ただかすかな潮風を嗅ぐばかりで、本物の海を見ていない。

 リンは海の姿が見たいばかりに、奥の院で一番高い塔に何度も登った。

 天気が良く、湿気の少ない日には、遠くにかすむ緑の内海と、千の島々が見える。

 丘の反対側の川のほとりにあるわが家のある方角を見る術はなかったから、それがリンには唯一の慰めだった。

 そして四年を経てようやく得たその自由を脅かすものが訪れたのは、我が家に戻ってわずかに三日目のことだった。

 

「お嬢様! お父様がお呼びですよ」

 会わずにいた間にずいぶん白髪が増え、口うるささの度も増した女中頭のレイネが、リンの腕をつかんで居間の隅に引っ張り込み、声を低くして言う。

「お客様がいらしてますからね」

 その日は朝から誰もがあたふたしているようで、リンには訳がわからなかった。

「なあに? なんなの?」

 四年留守にした我が家は、何か埃っぽいようなよそよそしいような、妙な感じだった。

 水やりの足りぬ埃まみれの庭木、テラスに残る猫の足跡、それに客人に応対する落ち着かない声。

 一見無難に整えられてはいるが、どれもが女主人の不在の長さを物語っている。

 隅々まで掃除の行き届いて、退屈なほどに落ち着いた秩序の保たれた奥の院で暮らしていたリンにはそのすべてが気になった。

 母の死からもう十年になるのだ。わたしが代わりにならなくてはならない。

 心にそう決めていたが、リンは自分に何ができるかまではよくわからなかった。

 

 リンは怒りを隠せなかった。

 ここはリテワの三公の一人、ウドール公の腹心の部下である父の書斎だというのに、父はまるで下働きの子供のように、すっと片手を上げた青年に部屋から追い出されたのだ。

 たとえどんなに身分の高い貴族でも、一家の主人をこうまでひどく扱っていいはずがない。

「ドゥナ・タルワ」

 背の高い青年は低く声をかけ、腰をかがめると、奥の背もたれの高い椅子に座っている人に丁重に手を貸した。

 タルワ氏族の尊い婦人。サブールの氏族社会では当たり前に使われるその呼び名は、氏族の別のない奥の院の生活の長かったリンには耳慣れない。

 青年の手を取りながら、ほとんどその力を借りずに立ち上がったのは、ひどく痩せて年老いた女だった。

「悪くない、悪くないわね、カリス」

 リンの顔を見るなりその老いた女は歌うように言った。

 誰だろう、この人は。

「タルワ・ドゥナ、パリムラ様だ」

 低い声で青年は言い、慌ててリンは腰をかがめて礼をする。

 身を起こしながら、リンはこっそり上目遣いで貴婦人の顔を見上げる。

 この人が王の妹だ。いや、正しくは先王の妹になる。

「似ているわ」

 パリムラのその満足そうな言葉の中にある何かにリンは身震いした。

「こうしてみると、アギが奥の院のさらに奥に、ほとんど一人で暮らしていたのは幸いだったわね。あの偏屈が」

 肩越しに青年を振り返るパリムラを見ながら、リンはふと目を上げた。

 奥の院に一人、お付きのものに囲まれるように一人で無言の行を行う少女がいたのを思いだしたのだ。

「それは……ルイテ・アギ、いえ、あの、アンゲーリナ王女様のことですか?」

 リンは恐る恐る口にした。

「そうよ。話したことはあって?」

 慌ててリンは首を激しく振った。

「……誰かと親しかったとか、聞いていて?」

「いいえ。ほとんど誰とも言葉を交わされないと……」

 その言葉を言い終えるまもなかった。

「その銀の髪、見事ね」

 パリムラの震える手がリンの髪にのびる。

 リンはパリムラの手を避けようとする身体を懸命におさえつけていた。

「アギもちょうどこんな、きれいな髪をしていた」

 リンは恐る恐るパリムラの顔を見上げる。

「まだ誰も知らないことだけれど、お前には教えるわ。アギはね、死んだのよ」

(死んだ?)

 奥の院の隅で、ひっそり暮らしていた同い年のあの少女が死んだというのか。

「……かわいそうにねえ。まだやっと十六になったばかりだったのにね」

 パリムラはため息をついた。

「アギはね、王のたった一人の娘なの。奥の院を出たらすぐに結婚するはずだったの。わかるわね」

 奥の院で育つほかの娘たちと同じだ。

「相手はエヴァイの公爵様でね。とても大事な縁組だったの」

 パリムラはそろそろと部屋の中を歩き回るようにしながら、いきなりリンに鋭い視線を向けた。

「お前、母親はエヴァイの貴族だそうね」

「はい、でも、早くに死にました」

 母の記憶はあまりない。

 物静かな、優しい人だった。

 サブラの言葉はあまり得意でなく、時々もどかしげに拙い言葉を継いだり、黙り込んだりした。

 エヴァイの言葉、シレリ語で話すときは、まるで歌うようだったことだけをリンはよく覚えている。

「乳母もエヴァイの女だったので、シレリ語がわかるのでしょう?」

「ほんの少しだけです」

 レイムの宮廷では、シレリ語を自由に操るのは洗練された教養人だとされているのに、まるで言い訳をしているみたいだ。いったいなぜ?

「アギだってそうだったわ」

 パリムラはリンの方に身体をねじるようにして振り返った。

「お前の父上は誰なの?」

「リテワ・カナ・ロデイア。ウドール公の秘書官です」

「そうね。そして父上には家族と領地と領民があるわね」

 リンは身体を強ばらせた。パリムラの顔を見たくなかった。

「わたしがなぜこんなことを言っているかわかるわね」

 リンは顔を伏せる。

 これは脅迫なのだ。

(何もかもをわたしの口から言わせようというのか?)

「わたしがあなたに何をして欲しいのか言ってごらんなさい」

 パリムラの言葉は穏やかだったが、否と言わせない力があった。

 そしてそれが意味していることも明白だった。

「……わたしにエヴァイに行けとおっしゃるのですか?」

 そう、リンは叫ぶように言った。

「本当はね」

 パリムラは座らせて頂戴とリンに指図し、今度は手助けさせてもう一度椅子にゆるゆると納まった。

「そのつもりだったわ。でもね、状況が変わったのよ。もっとアギを欲しいという人が現われたの」

「欲しい……?」

 嫌な言葉だった。

「ダンゼンのリュシ将軍の名前ぐらいは知っているでしょう」

 リンは首を振った。

「まあ、驚いたこと。いくら奥の院育ちが物知らずだと言ってもねえ。二年前の戦は覚えているわよね」

「ええ、敵の兵士が丘のすぐそばまで押し寄せてきました」

 リンはあの雨の日の恐怖をまざまざと思いだす。

 都レイムは恐ろしいまでに蹂躙されたのだ。

 閉ざされた世界である奥の院も、騒然とした雰囲気に包まれ、いくつもの無言の誓いが破られた。

 逃げたくても逃げるところなどない。神々にすがる以外に少女たちにできることはなかった。

「恐ろしかった」

 リンは思いを振りきるように顔を上げた。

「あの時軍勢を打ち払ったのがリュシ将軍よ」

「そんな有名な方……」

 リンはそう口にしてから我に帰った。

「ちょっと待ってください。わたしにも婚約者がいます」

「ワシュード卿には気の毒だけれど、卿の許嫁は婚礼の前に不慮の死を遂げるの」

 節をつけて歌うようにパリムラは言い、骨張った頬であでやかに微笑んだ。

 リンは混乱して、どうしたらよいのかわからなくなった。

「ドゥナ・タルワ、この娘が本当にアギとして通用すると?」

 パリムラは青年のさえぎる言葉に取り合う風もない。

「カリス、お前はアギに会ったこともないのでしょう? 実の叔母の言葉を疑うの?」

 カリス?

 するとこの方がウドール公なのか、とリンは驚いて、まだ少年ぽさの残る若い貴族の顔を見上げた。

「まったく、わたしがよく似ている子がいたと、もう院から出てしまう同じような年頃だと言っているのに、このカリスときたら……」

 パリムラの続ける繰り言など、リンの耳には入らなかった。

 この人はわたしを何だと思っているのだろうか。ただ自分の言うがままになり、感情も考えも持たない人形?

「無理です」

 リンはこの貴婦人をひどく怖れてはいたが、それでも必死にあらがう言葉を口にした。

「わたしには王女はつとまりません」

「誰でも王女に生まれればつとまるというものではないわ。確かにね」

 ぴしゃりと言うパリムラは先王の妹、つまり王女の生まれである。

「でもアギだって生まれながらの完璧な王女だったわけじゃないわ。アギが王女となったのは、つい二年前のことよ」

 リンは二人が気軽に口にするアンゲーリナ王女のシレリ語の愛称にまだなじめないでいた。リンにとっては、神女ルイテ・アギか、名もよく知らぬ王女のどちらかでしかない。

「それにしてもよく似ている……」

 くっくっく、と小さな笑い声はリンの耳にも届いた。

「これならアギの母君とて気づくまい」

 今度はリンにも、パリムラがアギの母である王妃を内心軽んじているのだということがわかった。

(王妃? ああ、名前も思い出せない。どんな方だったろう?)

「……ああ、なんてこと。ほんとにアギは死んでしまったのねえ」

 ため息のようにパリムラがもらした声は、リンの心をほんの少し動かした。

 この人はこの人なりに姪を愛していたのだ。そう、実の娘のように。

 しかしその次の言葉はリンの背筋を凍らせた。

「カリス、父親に話をつけてきなさい」

 リンは茫然として、黙って身を翻し、大股に部屋を出ていったウドール公を見送っていた。

 

「こちらを向きなさい」

 骨ばった手に肩をつかまれ、リンはびくっとして振り返った。

 驚くほど間近にタルワの貴婦人の顔があった。

「お前、名前は何というの?」

「リテワ・カナ・リンナ」

 声は震えた。

「リン、いいえ、アンゲーリナ。それがあなたの名前」

 それが宣告だった。

「今日からあなたはわたしの姪、いいえ、娘よ」

 

 

 そのまま、リンには監視が付き、父や弟に一目会うことも許されず、身の回りのもの一つ持てずに抱え込まれるように馬車に乗せられ、タルワの別邸だというこの家に連れてこられた。

 最初は恐る恐る、段々に勇気を出して、リンは散々暴れたり泣きわめいたりし始めた。抵抗の方法を他に思いつかなかったのだ。

「はなして! けだもの!」

「わたしは家に帰るわ」

「出して! ここから出して」

 ひどく喉が痛んでも構わずわめいたせいで、喉の奥には血の味がしたし、声らしい声など出なかった。

 あちこちを手当たり次第殴って回った両手は赤く腫れ、ところどころ青黒く染まった指の関節には血がにじんでいた。

 父の家でこんなことをしたら、どんな罰を受けるか分からないほどに暴れても、周りのものはさして困った様子でもない。無表情のままリンの乱行をやり過ごし、黙々と片付けたり、各々の職務を果たすばかりだった。

 それがまた、リンにはやりきれなかった。

 

 ウドール公はじっとリンの前に立っていた。

「そんなことをして、何かになると思うのですか?」

 それはひどく静かで、冷たい言い方だった。

「食事もなさっていないとか」

 リンは唇を噛んだ。

「私はあなたの味方じゃない」

 心のどこかでウドール公がこの状況を変えてくれるのではないかと期待していたリンは、気落ちするのを隠せなかった。情を解する人だと思ったのだが、確かにこれは情では理解できない境遇だ。

「確かに脅してあなたを従わせようとするのは、間違ったやり方だと私も思います」

 リンは息を止めて、そしてゆっくり吐いた。

「あなたの父上と、ご家族には害が及ばないようにすると、私が約束しましょう。これまでと同じように、父上には私の秘書として働いてもらいます」

 思わずリンは身震いした。

「誰もあなたの味方にはなれない。あなたはたった一人で、戦わなくてはならない。それでもあなたが王女として生きていくのを選ぶのなら、私はあなたの味方になりましょう」

 条件付きながら、初めて示された好意に、リンは動揺するばかりだった。

 自分の命、王女の身代わりとしての存在そのものをかけるほかに、リンが戦う手段はなかった。

「わたしは……どうしたらいいの」

「あなたが自分で決めなさい。そして、その決心を貫きなさい。私は他には何も言えません」

 

 翌日のことだった。

 朝早くからしとしとと雨音が響き、リンは重たい頭を抱えたまま、部屋の大きな椅子に身を預けていた。

「今日は静かでいらっしゃいます」

 恐らくリンの様子を訊ねたのであろう聞こえなかった声に対して、答える女の声だけが外からした。

 しばらくして、黒いベールをかぶったパリムラが部屋に入ってきた。

「今日はリンの……リテワ・リンナの葬儀よ」

 リンにはようやくわかった。

 こう告げられたのだ。

 もうお前はこの世には存在しないのだと。

 

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