天幕の入口/聖地巡礼記/本棚/風紋/夜の扉/焚火の前/掲示板/宿帳/天文台/砂のしとね/月の裏側/総検索

   第15回

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14  16 17 18 19 20  


五、 紅  その2

 小さな手燭一本でくらい階段を登るのは、手探りに近かった。

 やっとのことで部屋にたどりつくと、長靴を脱ぎ捨て、腰の剣を外して、着替えもせずに寝台の布団の中へもぐり込んだ。

 頭も身体も、なにか自分のものではないようにひどく重く、地の底へずぶずぶ沈んでいくようだった。

 ただじっと横たわるには辛すぎるほど身体が疲れているのだろう。

『アーナ・ルカシュ』 澄んだ甘い声がルカシュを呼ぶ。

『ルカシュとお呼びくださいと、申し上げたでしょう。王女殿下』

『それなら、わたくしをサーラとお呼びなさいな。そうでなければ、アリシア。わたくし、どちらの名前も響きが美しくて好きですから、どちらでも構わないわ』

『恐れ多いことを。では、……サーラ姫とお呼びすることをお許しください』

『あら、サーラの方がお好きなのね』

 照り付ける日差しと、抜けるように青い空。

『悪いな、ルカシュ。今日の勝負は僕が頂きだ』

 アークが隣の戦車から、兜の飾り羽根を直しながら笑いかける。

『何を言ってる、こいつめ。今日もこっちが頂きさ』

『いいや、今度ばかりはそうはいかない。なんたって、こっちには勝利の女神がついているんだからな』

『おいおい、何を言ってるんだ?』

『昨夜はとうとう、王女を落としたのさ』

 競争の始まりの合図である、角笛の長い音が競技場に響き渡ったのは、その言葉とほとんど同時だった。

 裏切ったのだ、あの人は。

(売女め! 誰にでも甘い顔をしやがって!)

 「あなたを誰よりもお慕いしています」

(同じことをアークにも、同じ顔をして言ったのだ)

 愛しています。

(殺してやりたい! その澄ました顔をめちゃくちゃに切り刻んでやりたい!

 ああ、憎い! それでも愛してるんだ。どうしたらいい?)

 「あなただけを愛してるのに、ルカシュ。

  あいしてるのに」

(嘘をつくな! おまえは幻だ!)

 「そばに行ってもよくって?」

(なぜ、そんなふうに笑う? 後ろ手に短剣を隠し持って……)

 短剣が闇を切った。

「うっ!」

 なぜよけられたのか、ルカシュにはわからなかった。

 短剣は羽根布団を切り裂き、白い羽毛が薄闇を舞った。

「よせっ! サーラ!」

 ルカシュは寝台から飛び降りて、無我夢中で白い人影に叫んだ。

(違う! サーラじゃない!)

 違う、ここは……

 ルカシュはやっと自分を取り戻し、燃え尽きかかった蝋燭の灯りで、目の前に立つ人間を見分けた。

「マルディラ!」

 ルカシュは、髪を振り乱したマルディラが、短剣を両手で構えて突っ込んでくるのをかわそうとしたが、一瞬足取りが乱れ、左腕に激痛が走った。

「よせっ!」

 ルカシュは絶叫した。

(心臓を狙ってる!)

 マルディラの構え、突き方は、達人のものではないが、かといって素人のものでもなかった。そして、本物の殺気があった。

 次の一突きをよけようとして、ルカシュは寝台の脇の燭台を倒し、それを踏んでつまづいた。マルディラの無言の攻撃を防ぐため、慌てて立ち上がろうと床に手をつくと、自分の剣が手に触れた。

(助かった!)

 剣を引き寄せるか寄せないかの間に、ルカシュの身体は訓練された通りに動き、剣は抜かれないうちにマルディラの手の短剣を叩き落としていた。

 部屋の隅に転がった短剣に手を伸ばすマルディラのみぞおちに、ルカシュは素早く剣のつかを叩き込んだ。

(馬鹿なことを……)

 ゆっくり床の上に崩れ落ちるマルディラの身体を片手で支えようとして、ルカシュは腕の傷が思ったより深いらしいのに気づいた。

 マルディラの白い衣服が、ルカシュの血で紅に染まる。掌や指にも何箇所か気づかなかった切り傷があって、ずきずき痛んだ。

(アーディス家を怒らせたら、アーフェン伯などひとたまりもないというのに……)

 恐らく、理屈はマルディラにもわかっているに違いない。マルディラにとってユーシスとは、それほどの犠牲を払える存在なのだ。

(僕には、僕をこれほど愛してくれる人はいるだろうか……?)

 ぐったりしたマルディラを痛む手で引きずるように運び、長椅子に横たえると、短剣を拾って暖炉の棚の上に置いた。

 腕の傷口から血が流れるのを押さえながら、ルカシュはマルディラの青い顔を見つめた。人を殺してまで、この娘は愛するものを守りたいのだ。

 水差しの水と、酒の残りで傷を洗い、簡単に手当てをすると、疲れがどっとぶり返してきて、ルカシュは寝台に身を投げ出した。剣だけは用心のため、枕元にきちんと置く。

 疲れた重い身体は、柔らかい布団に沈み込み、ルカシュは薄れていく意識のどこかで、外の小鳥のさえずりを聞いていた。

 

 

 

(続く)第16回


天幕の入口/聖地巡礼記/本棚/風紋/夜の扉/焚火の前/掲示板/宿帳/天文台/砂のしとね/月の裏側/総検索

inserted by FC2 system